尾崎豊の死因は?他殺・自殺説と死亡までの経緯を詳しく紹介

この記事では、1992年に26歳の若さで亡くなったシンガーソングライター尾崎豊さんの死因について調査した結果をお伝えします。

尾崎豊さんは、独特の歌唱スタイルやダイナミックなライブパフォーマンス、そしてカリスマ性により、日本の音楽シーンに大きな影響を与えました。

亡くなって30年以上たった今でも多くの人に愛されつ図ける存在です。

そんな尾崎豊さんの死因は、肺に水が溜まる肺水腫とされていますが、それ以外にも自〇や他〇といったいくつもの説があり、現在もネット上では様々な憶測が流れています。

尾崎豊さんの死因についてわかりやすくお伝えするので、気になる方はぜひ最後までご覧ください。

尾崎豊の死因は肺水腫

尾崎豊さんの死因については当初、死亡後の司法解剖の結果、排水腫だと発表されました。肺水腫は、肺の血管外に異常な量の水分が貯留している状態を指す病名です。

血中のアルコール濃度が異常に高かったとされており、発表当初は、過度な飲酒が肺水腫を引き起こしたのではと考えられました。

元々、尾崎豊さんは、境界性パーソナリティ障害や双極性障害(躁うつ病)を抱えていたという話もあり、シンガーソングライターとして活躍する一方で、スランプに陥った際のプレッシャーなどからお酒におぼれていたそうです。

2年後に体内から覚せい剤が検出されていたことが発覚

後述しますが、尾崎豊さんが死亡した2年後の1994年にフライデーで尾崎豊さんの死体検案書が掲載されました。

その記事の内容によると、司法解剖時に体内から覚せい剤が検出されたことや、外傷性クモ膜下出血があったことが明らかになりました。

さらに15年後に検視担当者が本を出版

尾崎豊さんの検視を担当した支倉逸人が本を出版しました。尾崎豊さんの死因について触れられており、肺水腫の原因が覚せい剤中毒であったが、死因である肺水腫だったことのみ発表されたとあります。

覚せい剤中毒は、時間が経って起こるものではなく、大量の覚せい剤服用による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫だとされます。

外傷性クモ膜下出血ともありましたが、出血は微量として死に至るほどの重症ではないと結論付けられています。

覚せい剤は、内臓にも残っており、肺には覚せい剤中毒の症状が見られたそうです。検視の際、尾崎豊さんの体内には致死量の2.64倍の覚せい剤の成分が検出されています。

したがって、過度な飲酒だけが肺水腫を引き起こしただけでなく、覚せい剤とアルコールの多量摂取による肺水腫が死因と考えられます。

引用:Amazon

尾崎豊の他殺説

フライデーに尾崎豊さんの死体検案書が掲載されたことやひどい外傷を見たファンの一部では「他殺ではないのか?」という推測がでました。以下では、他殺だと言われる理由として挙がった説を紹介します。

妻の繁美

尾崎豊さんは1990年、当時アイドルとして活躍していた斉藤由貴さんと不倫旅行をしていたことがフライデーにより報道されています。

尾崎豊さんと妻の繁美さんの夫婦仲は良くなかったようで、尾崎豊さんの実父健一さんから繁美さんに対して離婚を願ったという話もあります。

その後、尾崎豊さんは、斉藤由貴さんの関係は終わりますが、繁美さんとの夫婦仲は冷え込んだものだったと言われています。

そして、尾崎豊さんの死後、健一さんと繁美さんは尾崎豊さんの財産をめぐり裁判で戦ったそうで、このことから遺産目当てで繁美さんが尾崎豊さんを殺害したのではないかと噂されました。

その説が噂され始めた後、テレビ朝日は、死体検案書のコピーと取材した内容を元に、繁美さんと知人が尾崎豊さんに覚せい剤を飲ませて殺害したという説を主張しました。

しかし、繁美さんはこの説を唱えたメディアと裁判で戦い勝訴しています。

創価学会

尾崎豊さんと妻の繁美さんは創価学会の会員でした。実父である健一さんも創価学会の会員でしたが、1991年11月に創価学会が親元である日蓮正宗から破門されたことがきっかけとなり、尾崎豊さんは脱会します。

この時、実兄の康さんも脱会しましたが、繁美さんは創価学会に残りました。

創価学会は、脱会した信者に対してひどい嫌がらせをするといった噂があるため、世間では、創価学会の信者により、殺害されたのではないかという説が出ました。

暴力団員

尾崎豊さんが死亡してから15年年後の2007年5月に月間keitaiバンディッツで尾崎豊を〇したという暴力団員の男性の証言が掲載されました。

証言によれば、死亡した4月25日、シラフの尾崎豊さんに覚せい剤入りのお酒を飲ませ、複数人で暴行を加えたそうです。

証言には一定の説得力がありましたが、真実とは言えず信ぴょう性は薄いとされました。

また、暴行した理由に関しては「それについては言えない」と黙秘しています。

この証言が掲載されたことにより、再度、繁美さんによる計画的殺人説が浮上しました。

いくつもの説がありますが真相は不明です。

尾崎豊の自殺説

上記で他殺説を紹介しましたが、尾崎豊さんが死亡した際に遺書が発見され、その遺書が公開されたことで、やはり自殺ではなかったのかともいわれています。

尾崎豊の遺書

尾崎豊さんが死亡してから18年が経過した2011年11月に尾崎豊さん本人が遺族に書き残した遺書が週刊誌に公開されました。

遺書は2通あり、1通は、死亡した日に所持していたセカンドバッグに入っていたそうで、内容は以下となります。

先立つ不孝をお許しください。

先日からずっと死にたいと思っていました。

シム前に誰かになぜ死を選んだのか話そうと思ったのですが、そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。

(中略)

さようなら

私は夢を見ます。
引用:日刊スポーツ

そして、もう1通は血染めの遺書で、妻の繁美さんと子供に幸せになってほしいという思いが書かれており、「愛しています」と血で書かれた文字で結ばれていたようです。

2通目の遺書は、尾崎豊さんが死亡して1か月後、母の絹枝さんの遺影の脇で発見されたそうです。

遺書が発見されたことは文藝春秋の月刊誌で奉持されましたが、内容までは公開されることはありませんでした。

この遺書は、繁美さんと親交があったジャーナリストの加賀孝英さんが詳細の内容を把握して預かっていたそうで、繁美さんから子供(長男の裕哉さん)が大きくなるまで公表を控えてほしい、自殺を悲しむファンが後追いしないようにとの理由で、発表を控えていました。

その後、長男の裕哉さんが成人して、アーティストとしての道を選んだことで、遺書の公開に至ったようです。

ジャーナリスト加賀孝英は他殺説を否定

遺書を預かっていた加賀孝英は他殺説を否定しています。加賀孝英は医者に取材した際に、医者は自殺であったと断言したそうです。

また、遺書の内容から、自殺を考えていることを相談する相手がいなかったと尾崎豊さんの孤独感が伝わります。自身の音楽活動が思うようにいかない際に覚せい剤やアルコールに依存するようになり、胃腸が機能しない状態だったという話もあるので自殺説が濃厚とのことです。

実父健一は自殺を否定

一方で、尾崎豊さんの実父である健一さんは、尾崎豊さんの自殺を否定しています。健一さんは、遺書が公開されるまで、遺書の存在について知らなかったそうです。

また、NEWSポストセブンの取材では、以下のように答えています。

「豊は気分が落ち込んでいるときに、突発的に遺書のようなものを書くことがあった。なくなる3年前に自殺を考えたことがあるらしいが、その時に書いた可能性もある。」

今となっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺じゃない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって、今でも思ってます。
引用:NEWSポストセブン

健一さんによると、本当に死ぬつもりで遺書を残していたのかは明らかではないとのことなので、やはり真相は不明です。

尾崎豊が死亡するまでの経緯①:足取り

尾崎豊さんの死因について経緯をまとめました。

1992年4月24日 パーティーに参加

1992年4月25日、死亡前夜に尾崎豊さんは、妻の繁美さんと共に青山学院高等部時代の友人らが六本木で開いたパーティーに参加していました。

パーティーは午後9時30分ごろに終了して、その後、喫茶店で旧友と再会します。その後、尾崎豊さんと旧友の人物は芝浦のバー「O’BAR」に向かい、繁美さんとは別れました。

1992年4月25日 バーの店員やタクシーの運転手に暴行

芝浦のバー「O’BAR」で酔っ払った尾崎豊さんは、バーの店員に暴行、バーを出て乗車したタクシーの運転手に対しても暴行したため、運転手は千住橋の警察署へ駆け込みました。

1992年4月25日 警察署で謝罪、その後の足取りは不明

尾崎豊さんは、警察署で運転手に謝罪して、乗車料金を支払い、警察署を出ました。その後の数時間の尾崎豊さんの足取りは不明です。

尾崎豊 死亡前の目撃情報

詳細な時間については不明なのですが、全裸で発見されるまでの間に、庭先のブロック塀に頭突きをしている男性の目撃情報があります。

1992年4月25日早朝 全裸で発見される

1992年4月25日の早朝、当時、尾崎豊さんの住まいだったマンションから約500メートル離れた足立区千住河原町にある民家の軒先で倒れていたところを発見されます。

発見された尾崎豊さんは、全裸で傷だらけだったようで、民家の家主の妻は不振に思い、午前5時45分ごろに警察に通報しました。

その後、墨田区内の白鬚橋病院(現在、東京曳舟病院に移転)に運び込まれた。

病院で診察を受けた尾崎豊さんは、医師に「生命にかかわることも考えられるので、専門医に診察してもらった方が良い」と診断されましたが、尾崎豊さんの妻と兄と共に自宅のマンションに帰宅しました。

1992年4月25日午前10時 容態が急変

全裸で傷だらけの状態で発見された尾崎豊さんでしたが、病院に留まらず帰宅しました。その後、尾崎豊さんの容態が急変します。午前10時頃、尾崎豊さんの呼吸が止まっていることに気付いた家族が119番通報しました。

1992年4月25日午後0時6分 死亡

119番通報して、文京区の日本医科大学付属病院に搬送された尾崎豊さんは、手当を受けますが、午後0時6分に死亡が確認されました。

尾崎豊が死亡するまでの経緯②:報道

1992年4月26日 尾崎豊死亡が報道される

1992年4月26日に尾崎豊さんが死亡したことが報道されました。

尾崎豊さんの急死報道(朝日新聞)

尾崎豊さんが死亡した次の日(1992年4月26日)に販売された朝日新聞に掲載された内容を以下にまとめました。

参考:Twitter

尾崎 豊さん急死
泥酔・保護・・・7時間後

25日午前5時10分ごろ、東京都足立区千住河原町で、ロック歌手の同区千住曙町、尾崎豊さんが泥酔して民家の庭に座りこんでいるのを、住人の110番で駆け付けた千住署員が保護し、救急車で病院へ収容した。尾崎さんはいったん自宅へ戻ったものの容態が悪化、午前11時ごろ再び救急車で文京区の日本医大病院へ亜子バレたが、午後0時6分、死亡した。千住署は行政解剖して死因を調べる予定。

「現代の青春」熱唱のロック歌手

同署によると、尾崎さんは最初に保護された時、衣服を付近に脱ぎ捨て、下着一枚で座り込んでいた。また、転げまわったようなかすり傷がなん箇所があったという。自宅へ戻って休んでいたが、ぐったりしているのに家族が気づき、再び病院へ運ばれたときは意識がなかったという。家族の話では前夜10時ごろからパーティーがあり、帰宅途中だったらしい。

尾崎さんは、東京都出身。1983年12月、シンガー・ソングライターとしてデビュー。高校を中退した経験や思春期の戸惑い、焦燥感、挫折感など、若者の赤裸々な思いを込めたデビューアルバム「17歳の地図」、シングル「15の夜」をはじめ、次々にヒットを生んだ。10代から20代にかけて、熱狂的なファンが多い。

84年夏のコンサートで、やぐらから飛び降り足を骨折するなど、体当たりのステージが注目を集め、硬派なロック歌手として高い評価を得ている。

一方、87年暮れ、自宅に覚せい剤を隠していた疑いで警視庁に逮捕され、88年に執行猶予付きの有罪判決を受けている。

5月10日に新譜のアルバム、シングルを出し、これを受けて、6月には東京、大阪、名古屋、福岡、鹿児島などで全国縦断コンサートを開く予定だった。

1992年4月27日 行政解剖から司法解剖に、そして死因発表

上記の内容の通り、当初は行政解剖が行われる予定でしたが、全身にかすり傷や右目のあたりにコブがあったことから司法解剖に切り替えられました。

司法解剖の結果、尾崎豊さんの死因は、肺に水が溜まる肺水腫だと発表されました。肺水腫は、肺の血管外に異常な量の水分が貯留している状態を指す病名です。

死亡した際の検査でも、血中のアルコール濃度が異常に高かったとされており、発表当初は、過度な飲酒が肺水腫を引き起こしたのではと考えられました。

1994年 死体検案書のコピーがフライデーに掲載

尾崎豊さんの死因は肺水腫と発表された2年後、死体検案書がフライデーに掲載されました。それによると、司法解剖時に尾崎豊さんの胎内から覚せい剤が検出されていたこと、そして、外傷性クモ膜下出血と記載があり、この記事により、尾崎豊さんの死因について様々な憶測が飛び交うこととなります。

尾崎豊が死亡するまでの経緯③:再調査を求めて署名活動

死体検察書のコピーが流出したことにより、尾崎豊さんのファンや実父である健一さん、実兄の康さんが警察に再調査を求めて署名活動を行いました。署名活動を行った結果、10万人以上の署名が集まりました。

引用:Twitter

再調査は不可、警察の公表では自殺とされている

警察に署名を提出したものの、再調査は不可となり、警察の公表で尾崎豊さんは自殺とされています。

尾崎豊が死亡するまでの経緯④:事件から15年後に〇したと暴力団関係者が証言

尾崎豊さんが死亡してから15年後の2007年5月に月間keitaiバンディッツに「俺が尾崎豊を〇した」という暴力団関係者の証言が掲載されました。

引用:Twitter

尾崎豊が死亡するまでの経緯⑤:検視担当者が本を出版 死因に触れる

尾崎豊さんの検視を担当した支倉逸人が本を出版しました。肺水腫を引き起こしたのは、過度な飲酒だけでなく、アルコールと覚せい剤の大量摂取だと結論付けました。

まとめ

今回は、尾崎豊さんの死因について、発表されている情報や死亡するまでの経緯をわかりやすくお伝えしました。

様々な説がありますが、真相は闇のままです。

遺書の内容を見ると尾崎豊さんはかなり追い込まれていたようで、日常的に死にたいと考えていた可能性もあります。

この世を去ってから、30年以上経つ今も人々に忘れられず、時代を超えて残り続ける曲はこれからも多くの人の心に響くことでしょう。